超高齢化社会
先日のニュースで、70歳代の男性が90歳代の女性から財布を盗み窃盗で逮捕されたと言う記事を目にした。
法務省発行の2017年版犯罪白書では、2万467人の刑務所入所者のうち、おおよそ2千人超を高齢者が占めているとの公表があった。
昨今の高齢者による痛ましい交通事故も多く、いよいよ日本の超高齢化社会が本気を出してきた感がある。
老いは誰にでも訪れる自然の摂理であまねく生物は逃れられない。
問題は人間の頭が良すぎることでその自然の摂理をねじ曲げてしまえるだけの技術を持ってしまったことだろう。
確かに生命といつのは尊く、それだけで偉大なものだが、それは終わりがあるからこその尊さであるとも言える。
(だからと言ってお亡くなりになった方や大切な人を喪失した方に「仕方がないよね」などと無神経極まりないことを言うつもりはないが)
尊く、偉大な命であればこそ、その終わりは尊いまま、偉大なままで終わりたい。
晩年を犯罪で汚すとは持っての他だ。
世の中みんな忖度だらけ
今回の記事はテレビ界のタブー、つまり放送禁止用語について。
自主規制の名の元、言葉狩りや、表現狩りが行われて久しい日本。
筆者が子供の時分に楽しんでいたテレビは最早存在しないのだが、それにしてもこの現状は異常だ。
テレビ離れの要因はテレビ業界にこそある。
視聴者や怪しげな市民団体に忖度しまくった結果、身動きが取れない状態に陥ってしまった。
翻って森友問題に揺れる財務省。
真相究明は一国民として絶対にお願いしたいところではあるが、突き詰めればこの問題も過度な忖度が根本にあるのではないだろうか。
人と人との関わり合いで仕事は進むものだが間違った方向へ進むくらいなら、自己の正義に従って誰にも後ろ指を指されないようにしたい。
死者1万5,895人 行方不明2,539人
人生において初めてリアルに「死ぬかもしれない」という感覚を味わった日。
己の力では如何ともし難い圧倒的な力の前にただただ恐怖に震える日だった。
もう 7 年も前になるが未だに昨日のことのように思い起こすことができる。
己の限界を知り、人の弱さを知り、自然の残酷さを知り、人の暖かさを知った。
今なお苦しんでおられる全ての被災者の方にお見舞い申し上げ、犠牲となった全ての方のご冥福をお祈りする。
偉そうな人 = テロリスト
世の中にはどこをどうしたって、どう頑張ったって気の合わない人というのがいる。
生理的に受け付けないとか、同族嫌悪とか言葉はたくさんあるけれど、要は嫌いなのである。大嫌いなのである。
筆者の場合はそれは「偉そうな人」。
例え社会的地位が高い者でも、紫綬褒章受賞者でも基本視点が上からで自分の大正義で世の中を渡っている人が嫌い。
あと、人と話してる時に如何にも小馬鹿にしたように鼻で笑う人が嫌い。
とは言え、世のことと言うのはなかなか思い通りにはいかないもので、そんな人とも多少なりとも関わり合いを持たなければならない。
そんな時の対処法は至ってシンプル。
「逃げる」
そう。逃げ出すのだ。
脱兎のごとく逃げ出すのだ。
頭を下げて小走りに逃げ出すのだ。
一瞥足りとも振り返らずに怒濤のごとく逃げ出すのだ。
日本的な精神論的な武士的な超絶理論で言うと「逃げても何も変わらない」とか「一度逃げると逃げ癖がつく」とかよく言われる。
そんなこたぁないのだ。
例えば、ここがアメリカだとしよう。
目の前で突然、銃武装したテロリストが現れたらどういう対処が正解だろうか。
1. セガール拳で倒す
2. 仲間になる
3. 直ちに避難する
どう考えても正解は 3 だろう。
自分の力では如何ともし難い相手に対しては逃げるのが最も有効な手段なのだ。
関わり合いにならないのが正解なのだ。
無理に相対して心を殺されるよりも逃げてしまえばいいのだ。
大嫌いな人と出会ってしまったらそれは自分の中で「テロリストに出会ってしまった」と潔く諦めて逃げましょう。
思っちゃったんだからしょうがない
今回は紹介記事なし。
と、言うのも完全に私的な、かつ独善的な内容だから。
賛否両論あるとは思うが、筆者はこう思っちゃったんだからしょうがない。という訳で相も変わらずつらつらと書きなぐります。
この程、働きたい企業ランキング中小企業版が発表されたそうだが、そこで一位に輝いた企業の給与査定システムに驚いた。
社員全員で一個人の給与査定を行うとのこと。
画期的というか、デリカシーが無いというか、経営者の責任感皆無というか、責任転嫁甚だしいというか、まぁとにかく素晴らしい制度だ。
記事によれば、この企業は年に一度二日間に渡って社員の評価を全社員で行ってその場で給与額も決まるそうな。ちなみにお酒も入ったイベント的なノリで。
敢えて言おう。これは360度評価の誤った使い方の典型だ。
人事部、または社長、役員の怠慢以外のナニモノでもないし、その企業で働く「人財」に対する冒涜以外のナニモノでもない。
人間という生き物は利己的で独善的で欲望の塊である。それは何よりも紀元前の遥か昔から洋の東西を問わず歴史が証明している。
人事評価とは常にその人間の濁った眼との戦いの歴史なのだ。
企業や組織、集団は評価制度の正解を求めて常に戦い続けているのだ。
問題はこの企業が絶対の信頼を置いている360度評価とはその評価に臨む者の資質によって得られる成果にとてつもなく大きな、そして時には取り返しのつかないようなズレが生じるというツールであるということだ。
そこを見えないフリ、気付かないフリをしている企業体質こそに問題があるのではないだろうか。
ツールはツールであってシステムではない。
360度評価とは評価制度の補助的なツールであるべきであって、そのものだけで評価が出来るような代物ではない。
ましてや、社員を財と捉えるのであればその企業の責任を負う社長や役員、もしくは人事権を持つ人事部が行うべきものだ。
社長や役員、担当部門が「普段の仕事を見れないから」評価出来ないとは言語道断。それは職務放棄以外のナニモノでもない。実に情けなく、戦慄すら覚える愚行だ。
評価というのはその評価を受けた者も、評価を与えた者も等しく責任を持つ必要がある。
果たしてこの素晴らしい360度評価に参加した全社員がその責任をどのように捉え考えているのだろうか。
他者を評価するという最も重く責任重大なタスクを企業全体、役員から中堅、新卒社員に至るまでどのように受け止めているのだろうか。
そして何より、企業責任を一手に背負う社長さんはどのように考えているのだろうか。
それほどまでに全社員が成熟しているとでも言いたいのだろうか。恨み妬み嫉みが一切介在しない、菩薩のような人間ばかりが集まった企業なのだろうか。
それはあり得ない。もしもそんな理想郷のような組織、集団が形成されるのであればそれは最早企業とは呼ばない。
宗 教 団 体 だ 。
甚だ不躾な意見で大変恐縮だが、筆者はこういった取り組みを鼻高々に誇る企業は一切信用しない。