猫も杓子もクラウド、クラウド。

クラウドサービスの歴史は意外と古く (そう意外でもないか) 既に1960年代にはタイムシェアリングというサービスで世の中に産声を上げている。

そこからシリコンバレー主導のもと様々なサービスが始まり、総務省の発表によると2019年には市場は2500億ドル規模まで膨れ上がるそうだ。

これからはパソコンからスマホタブレット、IoT機器に至るまでおよそ何かをする時に必ず発生する通信の8割がクラウドサービスを経由するようになるとの発表もありプロバイダー各社は切磋琢磨の真っ只中である。

 

クラウド

つまり小学生が描く雲のようなものなのだが、利用者からするとクラウドサービスの中身がどうなっているか全く知らずとも利用出来る便利なシロモノ。

これは実にあやふやでどんなセキュリティポリシーで運営されているのか、クラウドサービスの中身が古くなった時の機器の入れ替えなどはどのように行われるのか、世間を毎度騒がせているウィルスや脆弱性などに、どこが、どこまで、どのように対応しているのか事細かに把握している利用者は少ないと思われる。

つまり、細かいことを考えるよりも楽してポイッと便利なモノに丸投げしてしまおうということ。

これは言い過ぎだとしても自前で目の届く所で事細かに手入れが出来る設備を放棄して他人に大事なデータを委ねるということに他ならない。

これは何も企業のインフラシステムとやらに限った話ではなくマクロで考えると今やあらゆる人に当てはまることだと思う。

 

知識の源泉と記憶の資源を外部に求めるようになって確かに便利にはなったが果たして豊かになっただろうか。

便利であることと豊かであることは違う。

かのチャップリンは独裁者という名作で映画史に残る名ゼリフを語った。

 

「私たちはスピードを開発したが、それによって自分自身を孤立させた。ゆとりを与えてくれる機械により、貧困を作り上げた。
知識は私たちを皮肉にし、知恵は私たちを冷たく、薄情にした。私たちは考え過ぎで、感じなく過ぎる。機械よりも、私たちには人類愛が必要なのだ。賢さよりも、優しさや思いやりが必要なのだ。そういう感情なしには、世の中は暴力で満ち、全てが失われてしまう。」

 

記憶や計算は便利な機械に任せることは最早変えがたい流れであることは認めつつ、判断だけは自分でするように生きていきたい。

判断までも便利な機械に任せてしまうとその先の世の中には本当に豊かな人生は無いように思う。

小学生が描いたような雲の絵の中に自分という存在 (または企業のアイデンティティ) をどこまで委ねるのか。

最新技術とは常に哲学である。

 


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