おいしいお米はAIで。

AIによる受付、AIによるビジネスマッチング、AIによる代替え医療、そしてついにAIによる稲作ときた。

AIによる業務効率化が推進されているのと比例して、「AIに仕事を奪われる!」などという記事も多く目にするようになって久しい。

思うに、究極的にはAIに絶対に奪われない仕事など存在せず、仕事がただのオペレーション化している者はほぼ全員、仕事を奪われると思っていい。

働くということが、決まりきった (計算された) 成果しか出さないような働きをしている人はAIだけでなく、いずれは自分より安価な労働力に取って変わられるだけの話だ。

 阪急グループ総帥の故小林一三氏がこんなことを言っている。

「下足番を命じられたら日本一の下足番となれ。そうすれば誰も君を下足番にはしておかん。」

つまり、仕事をただのルーティーンと捉えるのか、創意工夫を重ねてその仕事の第一人者となるまで極めるのか、どちらの心持ちで仕事をするかによって自分の代替えに仕事を取られてしまうのか、そうでないのかが決まるのだ。

AIに仕事を取られない方法とは、自らに貯めた経験と知恵 (敢えて言うが知識ではない) を活かし続けることである。

誰にも追い付けない、AIにも決して追い付けないほどの圧倒的な知見を持つことが大切なのだ。

そのためには今の自分の視点だけでは足りない。他業種から自分の仕事を見た時にどのように見えるかに考えを巡らせることも重要だ。

では、そのためにはどうすれば良いか。

それは多くの人と出会い、多くの知見を得ることだ。

皮肉にもAIに打ち勝つ有効な手段は人と人との結び付きをより多く、より強くすることなのだと筆者は思う。

 

 


クボタ、AIで営農支援へ 収量、食味改善で栽培分析 - 共同通信

忘れない限り、いつも心に咲いている

左とん平さんがご逝去された。

先日の大杉漣さんといい、往年の名バイプレイヤーの方々が続けてとお亡くなりになられている。

人の寿命は限り有り、いつかは迎える人生の最後だが、残された人間はその足跡と思い出を胸にいつまでも在りし日の姿を忘れない。

 

心よりご冥福をお祈りする。

二輪に夢も乗せて

今日は自転車の話。

2016年のとある統計データでは都内在住者の平均通勤時間は43.8分だそうな。

完全週休二日制で計算すると、往復で1752分、実に約29時間、1日超も毎月、通勤に時間を割いているということになる。

駅直結という立地に恵まれた会社にお勤めだという人もいるが、多くのサラリーマンは社屋最寄り駅からは徒歩で通勤されているだろう。

筆者もご多分に漏れず、その一人で毎日の通勤で決まった徒歩コースがある。

 

先日、たまたま社屋近くの居酒屋で後輩社員の送迎会が開催されたので、およそ飲み会と呼ばれる席には滅多に顔を出さない筆者だが、長年共に働いた後輩に感謝と労いの意を伝えるべく、これまた滅多に通らない居酒屋横丁へ足を向けた。

すると、なんということか社屋最寄りの駅から居酒屋横丁までの道がなんとも哀愁があり、素晴らしい道だったのだ。

自分自身の語彙力の低さに辟易するが、決して広々として清々しいとは呼べないが、なんというかなんとも味があり、独特の空気が流れていて、昭和の日を思い起こさせるようなそんなノスタルジックな匂いの道だったのだ。

少し行動範囲を広げるだけでこんなにも素晴らしい道に出会えるとは、いやはやまだまだ日本のオフィス街も棄てたものではないらしい。

 

今回の記事はオランダのインテリアデザイナーの方が開発した自転車の紹介だが、この自転車を持ち、通勤の友とした暁には、月29時間の通勤時間を減らすためではなく、新しい道に出会うために使いたい。

そんな思いも一緒に乗せる自転車の開発ニュースに胸踊る如月の末である。

 

 


自転車通勤者向けにデザインされた折り畳み「Praxis」-走っている時間より、折り畳んでいる時間の方が長い人向け [インターネットコム]

それだけで素晴らしい

平昌五輪も終盤を迎え、今日、女子フィギアスケートフリーが行われた。

宮原選手はショートプログラム、フリー共に自己新記録。

坂本選手もそのポテンシャルを十分に発揮した結果だった。

宮原選手、坂本選手だけに限らず、そしてまた日本選手団だけに限らず、平昌五輪で戦った全てのアスリート、今回の五輪に出場することが叶わなかった全てのアスリートへ厚い厚い御礼と労いの言葉を送りたい。

 

真摯に向き合えるものがあり、全てを賭けるものがある。

だからこそアスリートはどんな人でも輝いている。

その胸にメダルは無いかもしれない。

不本意な結果に終わったかもしれない。

不運に見舞われたかもしれない。

それでもアスリートは輝いている。

その輝きに多くの感動と希望を、そして少しの嫉妬と罪悪感を感じ、ただ純粋に伝えたいことは

本当にありがとう。

お疲れ様でした。

 

 


宮原知子「やれることはすべてできた」:平昌大会:読売新聞(YOMIURI ONLINE)

国が育てたAmazon、Amazonが育てた国

以前の記事でも言及したが、Amazonのヘルスケア分野への進出ニュース。

日本でも米国でも医療制度、保険制度というタイトルは利権の巣窟のようで、なかなか一朝一夕での解決には至らない問題が山積している。

だが、断言してもいいがAmazonは西側 (イマドキいささか古い言い回しか) の先進国に医療、薬剤処方、保険、介護、埋葬葬儀、全てを含めたヘルスケアビジネスで新たなビジネスモデルを確立するだろう。しかも、そう遠くない未来にだ。

恐らくはこれこそがAmazonを取り囲むPoliticsの最終目標なのではないだろうかと勘繰ってしまうほどに。

 

Amazonという存在を知るにはベゾス氏の講演やインタビュー記事などに目を通すのが最短の道だ。

だが、筆者はもう少し違う角度からAmazonという存在を見てみた。

Amazonの設立は1994年、カタブラという社名でインターネット書店という業態で設立されたことは今や誰でも知っていることなのだが、実際にAmazonとして社名変更して本格的にサービスを提供し出したのは1995年からだ。

当時の米国は1992年の大統領選で再選が取りざたされていた共和党ジョージ・ブッシュ元大統領 (パパブッシュ) が民主党ビル・クリントン元大統領に負けて、米国民が民主党政権 (リベラル) に国の舵取りを任せた時代だ。

クリントン元大統領は次の1996年の大統領選でも再選を果たし、この時期の米国は長期民主党政権であった。

クリントン元大統領の政策は時に批判の的にもなったが、彼の舵取りのもと米国はIT産業に経済の力点をシフトさせていく。

その思想的基盤が彼の有名なパリマ・ハリマン女史のバックボーンたるチャイルド陣営 (こんな風に書くと陰謀論者と鼻で笑われるだろうが) 由来のものか、そうでないかは筆者の知るところでは無いが、Amazonクリントン政権時代に早々にそして着実にその礎を確固たるものとしていく。

時代は巡り、2000年の大統領選では共和党ジョージ・ブッシュ元大統領 (サンブッシュ) が大統領となり共和党政権が始まる。

この政権下では周知の通り、戦争やテロが目立ち、なんと日本では第二次世界大戦以降、ご法度中のご法度となっている情報機関による通信盗聴の許可が公に認められることになった(勿論、当時の世相からして対テロリズムへの対策としては非常に有用であることは間違いないが)。

時を同じくして、Amazon web service の思想的設計が始まり、論文の発表と相成るのである。

そして近年、AWSは米国情報機関の基幹システムに導入されていったのである。

米国政府とAmazonという存在について、筆者の強引なこじつけに他ならないかもしれないが、無関係ということはないのだろうと思う。

 

奇しくも米国を始め先進国では戦争や飢餓に怯えることが無いご時世だ。

人間の欲望は洋の東西を問わず、また時代を問わず不老不死へと向いていく。

その是非は置いておくとしても、米国の官民主導によるヘルスケアビジネスの夜明けはAmazonという巨像によって結実していくのだろう。

 

 


21世紀最大のビジネスチャンス「ヘルスケア」に挑むAmazonの可能性 | 湯川鶴章 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

空気を読む。そして忖度する。

今日は久しぶりに紹介記事無し。

と、言うのも専ら多くの記事が出回り、なんだか状況が混沌としているから。

働き方改革関連法案で安部総理が答弁撤回した問題に関連して少し思うところを。

 

日本には (と言ってもそれほど国外の文化に熟知しているわけではないけど) 所謂、「空気を読む」「行間を読む」という文化がある。

相手の気持ちを推し量る。つまり本来の意味での「忖度」だ。

顧客や上司、先輩から後輩、部下、あるいは恋人、夫、妻、想い人に至るまで、こと人間関係のあらゆるステークホルダーに対して取られる日本的感覚のコミュニケーション手法だろう。

この源流は日本の教育制度まで考えを及ばせるとなるほどスンナリと腹に落ちる。

小学校からの必須科目である国語が原点だ。

筆者にも思い当たる節があるが、よくよく思い出してみると、あの何十年とお付き合いする国語科目では成績を測るのに当然テストがある。

その内容はと言うと、配点割合で重点を占めているのが文章読解力問題の「この時の作者の気持ちを述べなさい」的な問題だ。

生来のひねくれものである筆者は子供心に「そんなん書いた本人しかわからんへんや」と幾度も思いながらあの長く退屈なテスト時間を過ごした記憶がある。

 

翻ってここ最近、森友問題に端を発してこの忖度による責任の所在、特に政治的な責任の所在がフワっとしていることが多いと思う。

これは官だけではなく民間企業でも多かれ少なかれ同じことが横行しているのではなかろうか。

良くも悪くも日本人はあやふやファジーを極端に好む習性がある。

このあやふやファジーがリベラル、保守間の言葉遊びで終わってるうちはいいが、第二次世界大戦の時のように有事の際に重大な転換点にならないように切に願うばかりである。

 

そう願いつつ、自分自身も毎度の記事で結論を出さないあやふやファジーに甘え続けているのである。。。

属国として生きるのもまた一興

日本と米国とTPPとFTAと。

1945年8月15日の転換点から本日、今に至るまで日本は米国の属国だと思う。

「思う」という表現を敢えて使ったのは国際法上は公式に独立した国家であるが、実質は宗主国が米国であることに変わりがないからだ。

ご存じの通り、日本を動かしているのは安部総理でも無ければ世論でも無い。官僚なのだ。

この国が形成された太古の以前から脈々と受け継がれている国家の裏舞台は官僚という偽政者の巣窟なのである。

その官僚が米国追従をしている以上、日本はいつまでたっても米国の属国なのだ。

断っておくが、現状の米国の属国という立ち位置を不満に思っているわけではない。

大戦以降の日本の立ち回りを考えればそれは至極当然で、むしろそれ以外に日本という国が生き残る道は無かったであろう。

今回の記事でも言及しているが、TPP11の内容は実は米国にとってはさほど重要では無い。日本と米国間で結んでいるFTAで取り返せばいいだけのことだからだ。

そして日本は宗主国の要求であればもちろん呑むだろう。

もっと言ってしまうと日本が国際社会で取り交わす全ての事柄は米国にとってさして重要ではないのだ。

何故ならば、我々がプレスリリースで知る全ての事柄はそうなる遥か手前で官僚が米国の承認を得て後に行われるからである。

あるいは頭の良い官僚が米国の思惑を忖度して動くからである。

だが、時代は移り変わっていく。

中華の国の台頭はいずれ終焉を迎えるだろうが、いずれ第二、第三の中華の国が出てくるだろう。

重要なのは第二、第三の中華の国に属国である日本は成れないということなのだ。

そして、それを是とするか非とするか。

是とする場合の生き残る道、非とする場合の生き残る道、官民でその選択が必要なのである。

 

 


「TPP11」来月署名、専門家も称賛する日本のリーダーシップ