教育は情熱だ
生来の教師、講師、先生嫌いである筆者は学校だけは大好きだった。でも、先生は大嫌いだった。
これは大人になって自分自身を俯瞰出来るようになってから分かったことなのだが、とにかく「他者に対して偉そうにする奴か嫌い」なのだ。
学校教諭にしろ、塾講師にしろ、人にモノを教えることが仕事な訳であって、先生と生徒との関係性が「知っている人」と「知らない人」間でのやりとりとなる以上、自然とそこには情報のアウトプット、インプットフローが生まれてしまう。
そもそも教えてもらう内容を知っている人はその場に居合わせないので、情報のフローは一方的にならざるを得ない。
そして、一方的な情報のフローがもたらすモノは老若男女、古今東西を問わず「優越感」に他ならない。
そういった知っている人側のある種の「驕り」が透けて見えることに筆者は幼い頃から違和感を感じている。
だから嫌いなのだ。大嫌いなのだ。
(勿論、そういったごく当たり前の仕組みを許容出来ない幼稚な精神性であることは自分自身が最もよく分かっており反省もしていることは付け加えておく。つまり筆者はひねくれものなのだ。。。)
では、その驕りに何を付け加えれば、筆者のようなひねくれものの知らない人が素直に情報をインプット出来るのか。
それは「情熱」なのである。
知っている人と知らない人の情熱が正しく比例した場合において、はじめて驕りとは全く別次元の空間が生まれる。
そしてそれこそが教師、講師、先生と生徒が唯一共有しなければならない教育の源泉であるべきだ。
今回の記事を読んで、彼の地の教育現場に思いを馳せた。
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