音楽は誰のもの?

著作権の保護はクリエイター保護、文化普及の観点から非常に大切である。

大切ではあるが、その中身はどうだろう。

JASRACなる団体に転がり込む利用料は果たして現状、妥当であろうか。

回収した利用料がどの程度クリエイターに還元されていて、どの程度公明正大、適切に運営されているのだろうか。

今問われているのは権利保護の観点出はなく、JASRACという組織自体の在り方に他ならない。

それこそが真の文化普及の礎になると思う。

 


音楽教室から著作権料、徴収開始認める答申=文化審:時事ドットコム

突き詰めると経営者は「社員のためではなく会社のため」に生きている

経営者の中には「会社のため = 社員のため」という考え方をする方が非常に多い。

特に日本の企業ほどこの考え方を経営者の都合の良い解釈にはき違えている傾向は顕著であろうと思う。

 

筆者はこれまで5つの企業を渡り歩いてきて、中には個人商店のようなスタートアップベンチャーもあった。

従業員数で言えば数千人規模から、数百人、果ては十人に満たない企業までを渡り歩き感じたのは企業の規模によって経営者が持つ思いは似通っているということだ。

例えば、新卒で運良く入社した会社は全国に500の拠点を持ち、従業員は数千人という企業だった。もちろん、新卒の我々が経営陣と頻繁に話せるような環境は与えられなかったが、毎月の経営陣からの訓話では常に「売上」「利益」「コスト削減」「イノベーション」といったキーワードが多く聞こえてきた。

 

一方で従業員が十人にも満たないスタートアップ企業でも経営者は「人件費」「コスト削減」としか言わなかったものだ。(当時の経営者は酒に呑まれるとよく「なんかいいアイデアないか」などとこちらを不安にさせるような愚痴を言っていたが・・・)

いずれの企業でも経営者の根底にあるのは「会社が成長すれば社員も嬉しいだろう」という思いだ。

それについては是非もなくその通りなのだが、困ってしまうのは「会社の成長 = 社長の取り分だけ増加」というエゴ丸出しの経営者がいるということだ。これは最早、自慰的、かつ独り善がりな思いでしかない。

 

一方で社員側にもどうしようもなく困った者もいる。ハッキリと言うと今日の日本企業で働く会社員は短絡的な「会社の成長より自分の取り分の増加」というロジックの元に働いている者がとても多いのだ。

もちろん、このロジックはどうしようもなく稚拙で精神的未成熟な大人の言い分だ。

給与は利益の分配であるので、高給与のためには会社の利益を上げる必要がある。

そのためには売上や利益、コスト意識も必要だし、イノベーションや新しいアイデアも必要だろう。

それらに思いが至らず (中には敢えてそういう仕組みを見えないフリをして) ただただ「もっと給与が欲しい」と囀ずるのが社員なのである。

そういった経営者と社員が限りある利益を奪い合うことだけに執着しているのが今の日本の現状なのだ。

 

裁量労働制を導入するのは大いに結構だが、そもそもの労働というものの根幹を見直すことが先だろうと常々思っている。

 

経緯はどうあれ、お亡くなりになった方のご冥福をお祈りする。

 


裁量労働制を違法適用、社員が過労死 野村不動産:朝日新聞デジタル

ダークサイドに落ちたやつはめんどくさい

メンバーシップは100点。

リーダーシップも100点。

フォロワーシップがマイナス250点。

これは筆者が自分の属する会社の先輩社員、後輩達、ひいては一部の経営陣に至るまでの同僚に常々感じている印象だ。

 

今回の記事にもあるが、DeNAから巨人にFAした村田選手と同様に筆者も前職からFA (決して戦力外通告ではない) で今の所属に移った類いの人間だ。

筆者も (知名度とオーナーの懐具合という点では彼と同じく) 中小企業からある程度の企業に移っている。

記事ではとても分かりやすく解説しているので、村田選手が置かれた状況については割愛するが、コミュニティーの中で「干される」というのは今まで様々な局面で目の当たりにしてきたし、様々な企業の様々な人間関係の中で思い知ってきた。

特に冒頭で挙げたようなパーソナリティの社員は干される理由に自身なりに心当たりはあるが、「郷に入れば郷に従え」という言葉に対して極端な (時には周囲がドン引きするくらいの) 拒絶反応を示すのだ。

さらにもうひとつ。この手の人間に共通している点として、正論を大上段に構えて正論の暴力を振るうことになんら違和感も抵抗もないパーソナリティであることが非常に多い。

それがあたかも「改善」であるかのように盲信し、周囲を辟易させるのだ。

改善と自己満足の境界線を引けないような人間が、浅はかな正論を振りかざし、自慰的な自己陶酔に耽っている様はなんともおぞましい光景だ。

 

今回の記事を全て鵜呑みにする気は全く無いが、村田選手はそんなおぞましい存在に陥ってしまってはいないか。

生え抜き、外様という文化自体が一時期よりも随分薄れては来た日本だが、それでもアスリートの世界は日本企業に負けず劣らず奇々怪々な世界である。

村田選手が優秀であれば優秀であるだけ絡み付いてくるモノは重たく、また醜悪だろう。

だからといってダークサイドに陥ってしまわないように、考え方や見方を変える時期に来ているのだとすると思いきった自己改革を。

 

 

 


実力はあるのにどこからも声がかからない…「わが社の村田修一くん」(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)

教育は情熱だ

生来の教師、講師、先生嫌いである筆者は学校だけは大好きだった。でも、先生は大嫌いだった。

これは大人になって自分自身を俯瞰出来るようになってから分かったことなのだが、とにかく「他者に対して偉そうにする奴か嫌い」なのだ。

 

学校教諭にしろ、塾講師にしろ、人にモノを教えることが仕事な訳であって、先生と生徒との関係性が「知っている人」と「知らない人」間でのやりとりとなる以上、自然とそこには情報のアウトプット、インプットフローが生まれてしまう。

そもそも教えてもらう内容を知っている人はその場に居合わせないので、情報のフローは一方的にならざるを得ない。

そして、一方的な情報のフローがもたらすモノは老若男女、古今東西を問わず「優越感」に他ならない。

そういった知っている人側のある種の「驕り」が透けて見えることに筆者は幼い頃から違和感を感じている。

だから嫌いなのだ。大嫌いなのだ。

(勿論、そういったごく当たり前の仕組みを許容出来ない幼稚な精神性であることは自分自身が最もよく分かっており反省もしていることは付け加えておく。つまり筆者はひねくれものなのだ。。。)

では、その驕りに何を付け加えれば、筆者のようなひねくれものの知らない人が素直に情報をインプット出来るのか。

それは「情熱」なのである。

知っている人と知らない人の情熱が正しく比例した場合において、はじめて驕りとは全く別次元の空間が生まれる。

そしてそれこそが教師、講師、先生と生徒が唯一共有しなければならない教育の源泉であるべきだ。

 

今回の記事を読んで、彼の地の教育現場に思いを馳せた。

 

 


黒板に手描きでWindowsを再現してコンピューターなしでコンピューターを教えるアフリカの熱血教師 - GIGAZINE

無限に顔が現れる精神的未成熟な駄々っ子ちゃん

右翼、左翼と昭和以前からのよく分からないカテゴライズがそもそも不満である筆者であって基本的にはラブ&ピースがモットーなのだが、どうにもお隣の国の主張がよく分からない。

 

悪いことをしたら謝る。

これは人間関係の基本のキではあるものの、彼らの主張には常に国内の政治的背景や経済的背景が透けて見えるのだ。

 

ごめんなさいの落としどころと言うのは乳幼児から国家間に至るまで、唯一、理性というものを授かった人類における普遍の未来思考であると言えるだろう。

例えば、過失、意図的に関わらずなんらかの損害を与えたとしよう。

その場合、過ちは過ちと認めて損害を与えてしまった相手に対して (特に原状復帰不可能なものであれば) どの様に償えばいいのかお伺いを立てる。

それが現実的、非現実的に関わらず、まずは相手の主張を聞くことから始まる。

そしてそれが非現実的 (例えば、亡くなった人間を生き返らせろとか、時間を遡って無かったことにしろなど) であれば、お互いの妥協点を話し合い、現実的な解決法を見出だしたら、そこに対して誠心誠意の償いを行う。

この問題は、その時々の国の代表同士が現実的な解決法を見出だし、完全納得はしないまでも落としどころに落ち着いたはずだ。

なのに、国の代表が代わるごとに毎度同じ状況に陥る。

つまり、この輪廻は今回のお隣さんの代表と解決法を見出だしたとしても、次の代表に代わればまた解決法を見出ださなければならなくなる。次の代表が代わって次の次の代表となったらまたそこでリセットされる。

永遠に終わらない輪廻と化している。

 

そして、その理由の大半は政治家の支持率というこれまたよく分からないものなのだ。

筆者の語彙力の無さに呆れていただきたいが、これでは「精神的未成熟なただの駄々っ子」ではないか。

 

隣人は選べないと言うが、あまりにも目に余る困り果てた隣人である。

 


慰安婦問題「『終わった』と言うな」=文大統領、竹島でも対日批判-日韓合意を否定:時事ドットコム

注意喚起!車内に閉じ込められた場合の対策

生来、幸いにも大雪や台風などといった自然災害が比較的少ない場所で生活している。

雪国の雪掻きの辛さも台風が発生する度に避難勧告が出る辛さもあまり身近に感じないながらも、支援募金があれば財布を逆さに降って出来るだけの募金を行うよう心がけているし、ニュースで報じられる度に被災者の皆さんにお見舞いの気持ちを持っている。

今回の福井県の大雪被害に関しては著名なYouTuberの方が続報を報じており、自然の猛威の前に人間の限界と無力さを感じる。

 

翻って今回の記事。

率直で暴論であることは十分に自覚しつつも敢えて言わせてもらうと、これは「人災」である。

警察はよろず屋ではない。それは分かっている。

混乱に乗じて不逞の輩が悪さをした場合の対処に重きを置くのも方針としては理解出来る。

だが、今回は明確な災害時下なのである。

言わずもがな、日本は自然災害と長くお付き合いしてきた国であることは、これまでその対応の最前線で身命賭して関わってきた警察が最も理解しているはずなのに、官の横連携の希薄さか、または取り次いだ担当者の危機意識の欠如か、痛ましい結果となってしまった。

人の命は何物にも変え難く、唯一無二の物である。

失われればもう二度と戻らない世界にひとつしかない絶対の宝なのだ。

それを失って今、福井県警のコメントに違和感と憤りを禁じ得ない。

民間企業では重大な瑕疵が発生した場合、ステークホルダーに対して原因と対策を報告する。そして、納得がいくまで議論を重ね (多くの日本的企業はここで瑕疵担保責任者に対して幼稚、かつ異様な虐めを展開するが) 再発防止策を打ち立て実行する。

安易な体制批判は望むべくも無いが、あまりにも他人事で、またあまりにも無責任極まるコメントと言わざるを得ない。

唯一無二の、絶対の宝という高過ぎる代償と引き換えに福井県警はどの様な対策を講じるのか、また原因究明の過程とその結果、どこにそして誰に責任があるのか、被害者のご家族と被災者たる福井県民の皆さん、そして国民に対して明確にすべきだ。

個人攻撃をする気は全く無いが、それこそが今回の人災に対する真摯な対応なのだ。

 

亡くなられた方のご冥福を心よりお祈りしつつ、最後にJAFのサイトから一酸化炭素中毒に対するリンクを貼っておく。

http://qa.jaf.or.jp/trouble/prevent/14.htm

 

 


豪雪車中死、母も3回県警に電話 救出求め「早く行ってほしい」 | 社会 | 福井のニュース | 福井新聞ONLINE

自分の生きる世代は自分で作る

団塊世代、バブル世代、ロスジェネ、ゆとり、日本人は物事をカテゴライズするのが大好きだ。

星座、干支、出身地から血液型に至るまでそれらに紐付いた (統計学的に) 根拠不明の占いまで存在する。

今回の記事ではクロ現での内容をそのまま受けてそんなカテゴライズされた世の中堅層に言いたい放題なのだが、記事の是非はさておき、一生貧困という宿命を背負ってしまった「らしい」世代からすると迷惑千万な話だろう。

 

確かに生まれ育った時代の国際情勢や景気状況など因果関係はあるかもしれないが、そんなことにもめげずに懸命に働いている人間は多い。

そしてなにより、人の幸、不幸などは千差万別、十人十色なわけであって、貧困 (の定義すら怪しいが) であっても必ずしも不幸であるとは限らない。

 

時代に翻弄されつつも自分の置かれた状況に応じて臨機応変に生き抜くことが出来るか出来ないか。

その能力こそが大切なのであって、必ずしもロスジェネ世代がその能力が著しく劣っているということはない。

だから各世代、どんな人間も自信を持って、そしてきちんとした大人であるべきだ。

そして世代論などに惑わされずに自分で考え、行動して、自分の人生を生きるべきだ。

 

 


一生貧困の宿命「アラフォー・クライシス」を生んだ犯人は誰だ(秋山 輝之) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)